かわいいとおいしい

そのために生きている

山手線で幸せを見つける女

劇団雌猫『悪友 vol.3 東京』を地元に帰る飛行機の中で一気に読みました。妊娠してから感覚が変わってしまって、1ヶ月くらい本が読めず、それはそれで辛かったのでそろそろ復帰したいなと思っていたときに飛行機移動という格好のチャンス、しかも地元に帰省するとき、ということで温めていたこの本を引っ張り出したわけです。

これまでの『浪費』も『恋愛』も番外編『美容』も、ヒリヒリした気持ちになりながらも楽しく読みました。今回の『東京』は消耗が強そうだな…と思っていて構えて読んだからか、逆にスッキリとした読後感があります。

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やっぱり影響されると黙ってられないので上京経験者なりに、自分なりの『東京』を記しておこうと思う。ちなみに私のヲタク遍歴は二次元(アニメ・ラノベ)→2.5次元(ニコ生・踊ってみた)→三次元(ハロプロ)である。地元にいるときは二次元、上京してからそれ以降にハマった。私にとって重要だったのは『生で見ること』だったようで、この感動はなかなかやめられない。むしろ『生で見られる』ものならなんでもよく、友人の社会人楽団とかでも心の底から感動して楽しめる自分に自分で驚いたりもする。

私にとってはじめて触れた東京は、ラノベヲタク時代の高校生のときに、部活で全国大会に参加するために出てきたときだった。『デュラララ!!』が好きで仕方なかった私は山手線の『池袋・新宿行き』というネオンを見るだけで高まった。新宿なんて歩いているだけで折原臨也に操られているようで幸せだった。私は絶対に東京に住みたいと思った。こんな妄想が現実になるかもしれない街で暮らせないとどうにかなってしまうと本気で思ったのだ。

念願叶って私は東京の大学生になった。地元時代は古き良き二次元ヲタクだった私が、上京してハマってしまったのはなかば嫌悪していたニコニコ動画だった。古き良きヲタクの私は、コンテンツを提供するのはプロの仕事で、素人が真似しても恥ずかしいものだと思っていたのだが、大学生は本当に暇でパソコンしか友達がいない(私の性格もあるだろうが)。そしてここから私の本当に好きなものがわかることになってしまうのだが、ニコニコ動画に出ている素人パフォーマーたちにはすぐに会いに行くことができたのだった。手の届く位置にあると人は手に入れたくなるのか。私は地下の劇場に通った。東京が好きな理由は、車を持っていなくても身一つで好きな場所に行けることだ。好きな場所に行ければ、好きな人に会える。選択肢が多いことは、割と意志の強い私には都合が良かった。

そんな大学生活を終え、社会人になった今現在、主な現場はハロー!プロジェクトのアイドルになったが、肩書は既婚者になり、予定ではこの夏、母親になる。夫は東北の出身で、私は九州の出身なので、二人とも上京していなければ出会うこともできなかった。そんな私たちの子どもは『東京出身』になる。たまたま山手線内に住んでしまっているから、この子は生粋の都会人として育つことになるのだ。私は都会人の親になれるのだろうか?それが最近の専らの心配だ。「電車で30分とか遠いわー」とかいう子どもになってしまうに違いない。まぁ私も言ってるんだけど。

上京してもう丸8年になる。もう東京に恋い焦がれていた地元時代も思い出せないのだが、未だに東京が大好きだし、特に今自分が住んでいる街からは一歩も外に出たくないと思っている。私の幸せはやっぱりここにあったんだなと胸を張って言える。いつか子どもが「東京以外のどこかに行きたい」と言ったときに、その欲を肯定して、気持ちよく送り出せる親になることが、今の夢だ。

相川茉穂ちゃん

2013年の冬からじわじわとハロー!プロジェクトのファンに戻った私は、年単位でゆっくりじっくりと『推し』の数を増やしていきました。

スマイレージ時代は正直誰を応援しているわけでもなく、言うならば箱推しアンジュルムへの増員改名も、増員自体は肯定的でしたが、改名は1mmも理解できませんでした。アンジュルムになってはじめてのシングル、大器晩成のインパクトはそれはもう強く残っています。華があって研修生時代から有名だった佐々木莉佳子ちゃん。抜群のパフォーマンスでデビューシングルからソロパートを掴んだ室田瑞希ちゃん。そして、どうしてその二人と並んで加入することになったのかよくわからない相川茉穂ちゃん。アンジュルム3期への最初のイメージは、そんなものでした。

大器晩成が発表された当初、私はまず室田瑞希ちゃんに惹かれて、いままでにない前のめりな気持ちでアンジュルムというグループを追いかけていたことを覚えています。気持ちが強く変わったのは、9人体制になって2枚目のシングル、3期がフィーチャーされた『魔法使いサリー』を見たときでした。

アンジュルム『魔法使いサリー』(ANGERME [Sally the Witch]) (Promotion edit) - YouTube

それまで、佐々木莉佳子ちゃんのようなエースでも室田瑞希ちゃんのようなパフォーマーでもなかった相川茉穂ちゃんのはじめてのきちんとしたソロパートで、私は彼女の声にどうしようもなく惹かれました。おっとりしたいかにも“綺麗なお姉さん”という声。歌が特別上手なわけでも、顔が特別好みなわけでも、ぜんぜんないのに、好きになってしょうがありませんでした。これまで私が好きになってきた女の子たちは、歴史に名を刻むほど歌がうまかったり、世間一般にはどう言われようと、私の感覚しては世界でいちばん可愛かったり(そういうことがよくある)、そんな子ばかりで、かつ、エース級といわれる子が多かったのですが、そんな中であいあいみたいな女の子をこんなに好きになるなんて、自分自身ぜんぜん想像していなかったわけです。あいあいが私の中でそれまでと違ったのは、「どうしてこんなに好きなのかわからない」という感覚を教えてくれたことです。今思うと、あいあいはとても愛に溢れている人で、その愛を伝染させられる魅力のある人だったのかなぁなんて思います。

アンジュルム 「夕暮れ 恋の時間」 Live HD - YouTube

あいあいはスマイレージが大好きな女の子でした。決してもらえるパートは多くないし、アンジュルムになってカッコいい、強い曲が多くなる中で、この子はスマイレージイズムが流れているんだなぁと思ったことが何度もなんどもありました。

アンジュルム『愛のため今日まで進化してきた人間 愛のためすべて退化してきた人間』(Promotion Edit) - YouTube

そんな中であいあいはパフォーマーとしてもこつこつと成長し続けて、もともと安定していた歌声で長尺のソロパートを掴み取ったし、卒業した田村芽実ちゃんのパートを引き継いで、頑張ってがなり声を出そうとしている姿にも心を打たれました。あいあいはきっともっと成長してくれるし、もっともっと美しい姿を見せてくれる。そう思っていました。

ニュース詳細|ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト

どうやら、あいあいが体調不良らしいということは感じていました。この時期は自分のプライベートの用事が忙しく、現場絶ちしていた頃だったので、映像やコメントで知るしかなかったので、私は結局2017年に一度もあいあいの姿を見ることができませんでした。それでも、アンジュルムのことが好きな彼女は戻ってきてくれる、なにより本人がそう言っているのだから、私は待つ、そう思いました。

ニュース詳細|ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト

当然、簡単な病気なのではないわけだから、年単位で待つことも覚悟しているし、それでもあいあいが戻ると言ってくれたなら私は何があっても受け入れるし、絶対に戦う、そんな気持ちでいました。

一方で、進化し続けるアンジュルムハロー!プロジェクトの波に、本当にあいあいが戻って来られるんだろうかと不安になることも増えてきました。パニック障害のような病気が『完治』するのだろうか? また舞台に立つことができるのだろうか? 私たちは、彼女の負担にならずにいられるだろうか? 不安な気持ちが日に日に大きくなっていくのを感じました。

ニュース詳細|ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト

正直、いちばん最初に感じた思いは「もう待たなくていいんだ」でした。それほど疲れてしまっていたのかと、冷静に自分を確認しました。それと同時に、7月の発表でもそうでしたが、あいあいの症状が快方に向かっていて、大好きな写真のことを勉強しながら大学にも通えているというのが本当に本当に嬉しくて、あいあいがどこかで幸せに生きていてくれるのなら、こんなに良いことはないじゃないかと素直に思えたのも事実です。できることなら、その姿を見ていたかったと思うのですが、そんな女の子の大事な一生を、ただのファンのエゴで潰してはいけない、そう思うから、私は大丈夫です。

最後まで、あいあいはたくさん迷っただろうし、不安もいっぱいあったと思う。でも、やっぱりあいあいは優しい人だから、私たちのことを解放してくれたのかなとそう思います。

アンジュルムとして活動させていただいていた期間、とても幸せでした。

本当に最後の最後まで優しい子だなぁと思います。そんなこと思ってくれているだけでとても嬉しい。あいあい、ありがとう。本当に本当に大好きです。いつまでもあいあいが幸せでありますように!

【カントリー・ガールズ】書いては消しての“I Love You”の歌詞&歌割予想

はじめに

カントリー・ガールズが何の前触れもなく12/24に突然新曲を配信しました。事務所様には言いたいことが散々あるんですけれども、パフォーマンスをしているカントリー・ガールズ、そして楽曲を提供していただいたヒャダインさんには何の罪もないので、純粋な気持ちで新曲を応援するために、歌割厨として歌詞の書き起こしと歌割予想をしました。勢いでやったが後悔はしていない。間違いは随時修正予定です。

 

書いては消しての ”I Love You”

書いては消しての ”I Love You”

 

 

 

歌詞&歌割

山木梨沙

森戸知沙希

小関舞

梁川奈々美

船木結

ゆにぞん

で色分けしてます。 

 

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この時代 お手紙なんて 古いではないかしら?

拝啓とかカタイかな

ひそやかに温めてきた 想いをしたためます

もうかれこれ5,6時間

 

いつもいつもこっそり 目で追いかけた

もしかしたら ほんとは 気づいていますか?

言わなければただのクラスメイト…

嗚呼 この胸はちきれそうよ

 

お手紙 I Love You(I Love You!)

正々堂々 I Love You(I Love You!)

文字にするだけでも 紅くなるわ

書いては消してを また繰り返す

時間ばかり経ってくの

正解 教えてください

漢字にするかな?

重くなるかしら?

いっそやめちゃおうか?

My First  I Love You

好きです!

 

授業中 目で追いかける あなたの後ろ姿

振り向いてくれないかな?

休み時間 近くにいても 軽口叩けないの

うろちょろと右往左往

 

お昼ご飯食べたり 忘れものしたり

他の全て なにも変わらぬ日常

机の中隠した この想いは

嗚呼 今日も出番知らずね

 

お手紙 I Love You(I Love You!)

正真正銘 I Love You(I Love You!)

クシャクシャにしては 降り出し戻る

いったりきたり まるでやじろべえ

あなたの気持ちを知りたい

知りたくないかも でもでも知りたい

 

好き、嫌い、好きって ずっと花占い

ああでもない こうでもないって 堂々巡り

切なすぎて 涙が溢れ出すの

あなたは今 何をしているのでしょう

ああ…月が綺麗ですね

 

お手紙 I Love You(I Love You!)

誠心誠意 I Love You(I Love You!)

愛はこんなに苦しいものなの?

声に出して 伝えたいわ

あなたの目を見て 「前から、ずっと…!

やっぱり言えない

言えるわけないわ

一文字一文字

My First I Love You
好きです!

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感想

めっちゃいい……

めっちゃいいよヒャダイン……

NHK『SWITCHインタビュー』で公開されたこの曲のレコーディング中の風景から、ヒャダイン自身がかなりメンバーのテンションを高めて、メンバーそれぞれの個性を活かしてパート振りしたんだろうなというのが伝わってきていましたが、そのとおりの想いのこもったすごく良い歌割だと思いました。

ていうか、カントリー・ガールズみんな歌うまくなりすぎでは??? 兼任組はもちろん、山木小関も遜色ないクオリティで、「あぁこれがカントリー・ガールズだな」と安心して聴けます。親バカぽいので真剣に評すると、みんな滑舌が良くなっていて「あれ、聞き取れるぞ……?」と感動してしまいました。その感動が行動に至っています。メンバーの発音が良くなったのもあるけど、そもそもが聞き取りやすい歌詞でもあるんだろうなと思い、本当にありがとうヒャダイン、ありがとう前山田健一様。そんな気持ちです。

歌割に関していうと、ほぼ間違いないと自信があるのですが、大サビの『伝えたいわ』と最後の『好きです』がちょっと迷いました。『伝えたいわ』は正直ちぃにしては上手すぎるような気もしなくもないのですが、最近のちぃの高音の伸びは素晴らしいのと、最後の聴かせる良いパートなのでナチュラルボーンセンターもりとちかなと判断しました。

そして最後の『好きです』は……パッと聴いた感じだとちぃなんですよね。あの、みんな大好きな耳真っ赤ちぃちゃんが照れながらの『好きです///』感がすごい。でもその前からの流れを考えると「あれ、ちぃが二人いる……??」となるわけです。というわけで声の可能性と推され具合から判断して、ここは船木が妥当かなと予想しました。推され具合がポイント。ちぃは1番で言ってるし。この1番の『好きです』は、いつものちぃじゃなくて、それこそ色気のあるちぃでこれも素晴らしいです。ありがとう前山田様。

とりあえず、本当に本当に良い曲をありがとうございます。これで溜飲を下げたり絶対にしたくないけど、パフォーマンスは心から楽しみにしてます。私は!!やじろべえに!!!!なりたい!!!!!

最高の「観客」としての人生

友人の所属している楽団の定期演奏会に行った。彼女がなにかの公演に出るときにはできるかぎり都合をつけて見に行くようにしている。私自身も5歳から18歳までピアノを習っていたし、中学生のときには吹奏楽部に入っていたし、音楽はずっと好きなので、彼女から届く演奏会の知らせをいつも楽しみにしていて、いつも心から楽しませてもらっている。

自分がやっていたこともあって、いろんなことを考えながら見ている。一番大きな感情は「楽しい」で、単純に観客としてその演奏を無心で楽しんでいる気持ちだ。その次に「自分もやりたい」と続く。人生の15年音楽をやってきて、終えるときには正直「もうやりきった」と思った。このさき、趣味ででも続けていければいいかな、ぐらいの軽い気持ちでやめた。その後自分のような人間には趣味で続けることはできないと衝撃的な事実に気づくのだが。

何度か「演奏会見ているとやりたくなるんだよね」と彼女にこぼしたことがある。彼女は「いいよいいよ。やってみよう」と声をかけてくれるが、私はなんとなくそれ以上進む気になれない。

体力が、ない。社会人になって趣味をきちんと続けられる人を、私は心から尊敬するのだが、それはひとえに彼ら彼女らの体力の大きさに圧倒されているのだと思う。彼女も私から見ると非常に体力があって、いつでも羨ましい。

私は長年無趣味であることがコンプレックスだった。もう少し正確にいうと、無趣味であると自覚していることが、コンプレックスだった。周りから見れば、私もそこそこアイドル鑑賞を続けているし、本も読むし、わりと趣味を嗜んでいる方だと、今ならわかる。だから「無趣味である」こと自体に思い悩むことはしなくなったのであるが、もう少し鮮明にわかったことがある。私は、私自身に体力がなく、動の趣味を続ける才能がないことを、嘆いているのだ。

ざっくりであるが、物事にはだいたい静と動があって、それは趣味にも適応されると思う。私が長く続けられる趣味はほとんどが静のものであって、動で続けられることを趣味として(つまり習い事や部活などの強制されるもの以外で)続けられることができないということに気づいてしまったのだ。これは、ただ単にいま音楽を復活させられないからというだけで決めつけているわけではなくて、この数年間の間にも何度か興味のあることを続けたことがあるのだが、それが続いた試しがないのである。とくにクリエティブなことは本当に続ける才能がなくて、編み物も縫い物も粘土細工も、全部1回で興味がなくなった。私にはなにかを続ける才能があまりないのかもしれない、と思うのだが、アイドル鑑賞と読書はかろうじて続いている。

話がぐるっと脱線してしまったように感じられるので戻すと、今回も演奏会を見ながら、何度も舞台に立つ緊張感や演奏をやりとげる達成感を思い出したのだが、「じゃあまたやりたいか」といわれると、自分の中でしっくりこない気持ちになる、を繰り返していた。ではどうして見るのは好きなのか、聞くのは好きなのか、シンプルに考えると、私はやはりこういう演奏会や劇、舞台、コンサートなどに生で触れることは非常に好きなのである。見ず知らずの大人たちや子どもたちが目の前の音楽に真摯に向き合って、一つのものをつくりあげているときに、心から感動している自分がいる。私の人生は演者から始まっているので、自分はすっかり目立ちたがりで、やりたがりなのだと思っていたし、今もそういうところがあるのではないかと疑っているのだが、どう考えてもここ5年単位で、観客としての自分のポテンシャルを感じてならない。今日そこに思い至ったときに、なんとなく自分の中で腑に落ちたのである。

さぁ、気づいたは良いものの、私は私自身のこれからの人生が「最高の観客としての人生」だと歓迎できるかと聞かれると、やや複雑な気持ちになっている。見ているだけで満足できるかというと、そうでもないのだ。では私は一体どうしたいんだろう? もう少し、いろんな社会を勉強しながら考えていくしかないのかもしれない。

ちなみにこのブログの前につくっていたブログのタイトルは『きっと誰かが主人公』であった。我ながら皮肉なタイトルであることよ。

誰にも見せないメモアプリに蓄積される過去の私たち

愚痴を垂れ流すのがやりたいことじゃないなと思って沸点に達した感じがしたら『瞬間日記』という鍵付きのアプリに書き込んで忘れるようにしている。一時期は少ないフォロワーでも誰かが見ている環境で愚痴るのがストレス発散になっていると自分では思っていたので、こうすることでストレスが晴れなかったら嫌だなぁなどと思っていたけれど、案外文字にするとスッキリするもので、ここ数年はなるべく実生活の愚痴はアプリ任せにするよう心がけている。私のツイッターでの愚痴はアイドル関係ばかりだ。

これはパンドラの箱のようなもので、アプリを起動したらまず投稿画面が表示され、そのとき思い至った愚痴を入力するまでこれまでの愚痴の羅列を見ることはない。普段はカッと打ち込んで、そのあと過去のものなんか見もしないでアプリを落としている。ひとつひとつを読み直すと過去のことであっても不愉快になるに決まっているからだ。

そういうわけで、読まないことにすると決めていたのに、今夜はなんだか気が変わって、昔の愚痴を読み直してみた。とはいえ毎日書いていることもないので10個ほどで数ヶ月分遡れる。

驚いたのは、書いた内容がどんな出来事に紐付いて、どんな事件だったのか、まったく思い出せないことだ。あまりに見事な嫌味のような文章に「よくこんな表現思いついたな」と感心することはあっても、それがどんな感情だったのかをあまり鮮明に思い出せない。

私は粘着質な人間なので、負の感情を持ち続ける方だと思っていたのだが、案外そうでもないのかもしれない。あまり深追いせず、眠ることにする。とりあえず、愚痴は貯めない見せない文字にする。そういうことである。

『なにもない』を知ること

数日前から下腹部に痛みを覚え、押すと痛む。過敏性腸症候群にはよくなるストレスフルな身体だが、女性の敵として名の知れている便秘とは無縁の人生を送ってきたため、あまり経験したことのない痛みに怯えた。しかし強いて例えるならば、生理痛のような重い痛みがやんわりとつづく。しかも左右。これが片方であれば盲腸かしらと思えたものの(それでも十分嫌だ)、自分でもわかるくらい子宮が痛んでいるように感じた。

かかりつけのお医者さんは、医院の名前とは違う苗字の女医さんが一人で営んでおり、この女医さんが非常にサバサバしていて、私はとても好きなのだ。「なんとなくだるいんです」というと「しっかり栄養をとろうね」となるべく薬漬けにしない。物足りない人もいるだろうが、かかりつけの医者であれば、これぐらい気軽に行ける方が良い。しかしこの病院が水曜木曜と定休日なのであった。その間もやんわりと痛み続ける私の下腹部。1日が命取りになってしまってはしょうがない。

しかしもともと病院が嫌いな私である。パソコンばかり見て一言二言告げるだけで数千円も取られる。自分の身体をあずける職業(医者、美容師、整体師)はなかなか積極的に替えられないのが性格である。そんな状態なのにうじうじと寝転がる私を見て、ついに夫氏が近所の評判のいい別の病院を見つけてきた。さすが靴をなかなか買いに行かない私に女性もののブランド靴を見つけてきた男である。元来人に借りを作りたくない私は重い腰を上げ、夫氏の見つけた病院に行くことにした。

そこは個人病院のわりに大学病院のような施設を揃えていることが売りのようで、院長がインタビューを受けている記事が壁に貼られていた。私はどうせその日だけではなにもわからず、血液検査で後伸ばしか、違う病院に行けと言われるかでそんなに期待していなかったのだが、超音波で腹部を見てくれるというではないか。初超音波が普通の内科で行われることに複雑な気持ちを抱えながら、私は身を委ねた。押すと痛いといっている部分を女性の看護師さんに何度も押された時はさすがに顔をしかめたが、もともと痛みが多すぎて痛みに鈍感な私である。「女性は痛みに強い、女性は痛みに強い」と頭の中で呟きながらその痛みに耐えた。あまりにも同じところを何度も見ているので、これは本当になにか病気なのではないかと、少し気が気でなかった。

結論から言うと特に病気のようなものは見られず、位置としてはやはり子宮であるので、少し腫れて痛いのかもしれないとのことだった。続くようであれば婦人科を受診するようにと優しい顔で言われた。ここのお医者さんは診察中にキーボードやマウスには一切触れず、手を膝において真っ直ぐにこちらを見てくれる。そんなことに感動するなんてと思うが、とても良い病院だなと心から思った。私はほんの少し、本当に病気だったらどうしようと思っていて、少し諦めたような気持ちになっていたのだが、「なにもない」とわかると、胸のつかえがとれたような気がした。なにがあるかわからない状態は無限に想像を膨らませてしまうのでよくない。私は健康なのだ!なにも恐れることはない!

先生がさらっと「まぁ脂肪肝がありますけどこれは運動不足ですね」と笑い流した部分をもう少し聞いておけばよかったと、今は少しだけ後悔している。

ねにもつタイプな私

人より本を読む方だとは思うのだが、もっぱらエッセイばかり読んでいるので、何か役に立つ知識が増えるわけでも、感受性が劇的に育まれるわけでもなくて、ただただ読むために読む、という行為になっている。

エッセイは良い。正解とか間違いとか関係なく、その人が思ったことを思った理由とともに述べられているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。私は想像力と感受性が割と強い方で、なにかを見たときや聞いたときに受ける影響が非常に大きい。特に映像で補完されない文章なんかは最悪で、自分の頭の中で無限に補完が広がって収集がつかなくなり、さいあく不眠の朝を迎える。そういうわけで、本を読むのはとても好きなのだが、小説は読まないようにしているのだ。

一年近く前から益田ミリを読み漁り、いまは文庫本をほとんど制覇してしまい、少し困っているところである。そんなときに王道も王道であるがさくらももこと出会い、最近ではずっとさくらももこのエッセイを読んでいた。売れている作家は良い。とてもたくさん読むものがある。2年ほど前に岸本佐知子の『気になる部分』を読んだ。夫氏(当時の恋人氏)にすすめられ、とにかくげらげら笑った記憶があり、岸本佐知子の書いた他2冊のエッセイも存在を教えてもらったが、なんとなく読まないまま時が過ぎていた。ふと思いつく時があったので、思い出した時が読みたい時かと、あらためて『ねにもつタイプ』を読んだのだが、これがどうもしっくりこない。私の中では岸本佐知子は好きな作風だったはずなのだが、なんとも言い表せない不気味な感情が、胸を支配してしまったのである。

考えてみると、もはや『ねにもつタイプ』はショートショートである。岸本佐知子の奇才さを極限まで際立たせようと編集者は企んだのだろう。彼女の不気味さは、日常から急展開して訪れる圧倒的非日常の描写にあり、それをより鮮やかに見せるのが、エッセイ風の文体であり、体なのである。

ここで、エッセイだと思い込んで油断していた私は、岸本佐知子の圧倒的世界観に飲み込まれ、頭の中で岸本佐知子の文章が具現化され、勝手に展開し始め、自分の力では制御できなくなっていく。これだから私はエッセイしか読みたくなかったというのに。

『ねにもつタイプ』はとても良い本だと思う。しかし私の風邪は悪化して、明日は大切な友人の披露宴だというのに咳が止まらず寝込んでしまっている。文学は薬か。薬は毒か。私は私の感受性をうまくコントロールできない自分を、とても疎ましいと思うし、愛らしいとも思っている。