かわいいとおいしい

そのために生きている

最高の「観客」としての人生

友人の所属している楽団の定期演奏会に行った。彼女がなにかの公演に出るときにはできるかぎり都合をつけて見に行くようにしている。私自身も5歳から18歳までピアノを習っていたし、中学生のときには吹奏楽部に入っていたし、音楽はずっと好きなので、彼女から届く演奏会の知らせをいつも楽しみにしていて、いつも心から楽しませてもらっている。

自分がやっていたこともあって、いろんなことを考えながら見ている。一番大きな感情は「楽しい」で、単純に観客としてその演奏を無心で楽しんでいる気持ちだ。その次に「自分もやりたい」と続く。人生の15年音楽をやってきて、終えるときには正直「もうやりきった」と思った。このさき、趣味ででも続けていければいいかな、ぐらいの軽い気持ちでやめた。その後自分のような人間には趣味で続けることはできないと衝撃的な事実に気づくのだが。

何度か「演奏会見ているとやりたくなるんだよね」と彼女にこぼしたことがある。彼女は「いいよいいよ。やってみよう」と声をかけてくれるが、私はなんとなくそれ以上進む気になれない。

体力が、ない。社会人になって趣味をきちんと続けられる人を、私は心から尊敬するのだが、それはひとえに彼ら彼女らの体力の大きさに圧倒されているのだと思う。彼女も私から見ると非常に体力があって、いつでも羨ましい。

私は長年無趣味であることがコンプレックスだった。もう少し正確にいうと、無趣味であると自覚していることが、コンプレックスだった。周りから見れば、私もそこそこアイドル鑑賞を続けているし、本も読むし、わりと趣味を嗜んでいる方だと、今ならわかる。だから「無趣味である」こと自体に思い悩むことはしなくなったのであるが、もう少し鮮明にわかったことがある。私は、私自身に体力がなく、動の趣味を続ける才能がないことを、嘆いているのだ。

ざっくりであるが、物事にはだいたい静と動があって、それは趣味にも適応されると思う。私が長く続けられる趣味はほとんどが静のものであって、動で続けられることを趣味として(つまり習い事や部活などの強制されるもの以外で)続けられることができないということに気づいてしまったのだ。これは、ただ単にいま音楽を復活させられないからというだけで決めつけているわけではなくて、この数年間の間にも何度か興味のあることを続けたことがあるのだが、それが続いた試しがないのである。とくにクリエティブなことは本当に続ける才能がなくて、編み物も縫い物も粘土細工も、全部1回で興味がなくなった。私にはなにかを続ける才能があまりないのかもしれない、と思うのだが、アイドル鑑賞と読書はかろうじて続いている。

話がぐるっと脱線してしまったように感じられるので戻すと、今回も演奏会を見ながら、何度も舞台に立つ緊張感や演奏をやりとげる達成感を思い出したのだが、「じゃあまたやりたいか」といわれると、自分の中でしっくりこない気持ちになる、を繰り返していた。ではどうして見るのは好きなのか、聞くのは好きなのか、シンプルに考えると、私はやはりこういう演奏会や劇、舞台、コンサートなどに生で触れることは非常に好きなのである。見ず知らずの大人たちや子どもたちが目の前の音楽に真摯に向き合って、一つのものをつくりあげているときに、心から感動している自分がいる。私の人生は演者から始まっているので、自分はすっかり目立ちたがりで、やりたがりなのだと思っていたし、今もそういうところがあるのではないかと疑っているのだが、どう考えてもここ5年単位で、観客としての自分のポテンシャルを感じてならない。今日そこに思い至ったときに、なんとなく自分の中で腑に落ちたのである。

さぁ、気づいたは良いものの、私は私自身のこれからの人生が「最高の観客としての人生」だと歓迎できるかと聞かれると、やや複雑な気持ちになっている。見ているだけで満足できるかというと、そうでもないのだ。では私は一体どうしたいんだろう? もう少し、いろんな社会を勉強しながら考えていくしかないのかもしれない。

ちなみにこのブログの前につくっていたブログのタイトルは『きっと誰かが主人公』であった。我ながら皮肉なタイトルであることよ。