かわいいとおいしい

そのために生きている

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気持ち悪さが強くて、なんにもできない休日が終わる。普段から食べるのが好きな方なので、自分が何を食べたいのか、何なら食べられるのかわからずに、ずっと吐き気と向き合わないといけないのがとにかくしんどい。

よく聞くひどいつわりでゲーゲー吐くほどではないからこそ、この不快感をどうすればいいのかわからなくて、自分でもそんなにキツくない方なのにと思ってしまっていて、より追い詰めてる気がする。

幸い夫氏がよくできた人間なので、適当にご飯を用意してもらったり、コンビニに買いに走ってもらったりと甘えることができる。本当によくできた人間でよかった……というところ。

結局人それぞれなので、つわりに効く万能な方法なんてないというのは重々承知しているけれど、どうしても『つわり ツボ』とかで検索してしまう。そして見つけた内関というツボが、意外と相性がいいようで、押しているといくらか気分が楽になった気がする。ということで、ツボ押しバンドと仲良くしている。

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もともと胃の不快感をおさえるツボなので、このツボがつわりに効くかというと言い切れるわけではないとのことだが、試してみる価値はあると思う。実際、今の私にはお守りのような存在になっている。ただ、やはり耐性ができてしまうのか、しばらくつけっぱなしだと効果を感じられなくなってくるので、一旦外して、また気持ち悪くなってから着ける、を繰り返している。どこか非合理的な気がしてならないが、今できることはそれで精一杯なのである。

 

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両親への報告は、どちらもすごく喜んでくれてホッとした。里帰り希望でもめた私の母も「ほんとう〜〜??」と出先だから小声だったが精一杯喜びを表してくれて、近くにいないと面倒も見れないが、できるだけこちらに来れるようにするからと概ね理解してくれた。やっぱり、私の今の一番の家族は夫なので、夫と離れることは考えられないと、我ながら子どもじみているかもと思わなくもないが、でも、子どもを父親と話す必要なんてないと思うという気持ちを伝えることができた。

母は「結局男の人はうまれるまで実感わかないからね…」といい、「お父さんも妊娠してるとわかったときに『ドラマみたいに実感が湧くかと思ったら湧かなかった』と言ってたわ」と続けたのだが、なんの運命か、夫も全く同じセリフを検査薬を前にして言ったのだから面白い。父と夫はよく似てるなと思うが、ここまでかとちょっと笑った。

先週は本当になんともなかったのだが、今週から急にやんわりとした吐き気が一日中とまらない症状に悩んでいる。食べても辛い、食べないともっと辛い。想像していたようにどちらかというと食べづわりの症状である。家事がほとんどできなくて家に帰ってくるとひたすら寝ている。自己嫌悪も酷いのだが、夫が率先して家の中のことをしてくれるので本当にありがたい。忘れないようにきちんと書いておく。

しかし、基本的には自分でなんでもやりたいタイプなので、できることが減るストレスが重い。いまは子どものためにしかたないのだと頭ではわかっているものの、気分も優れないし、言いようのない不安が襲ってくる。まだ周りに打ち明けていないので、この気持ちを伝えられるのが夫だけだというところもなんだかこう、足りないのだ。

というわけでここ一週間はブログも書きたくない状態だったが、今日はつわり自体に慣れてきて、ようやく記録をまとめることができた。次の通院は一週間後。心拍が見えるだろうか。我が家ではまだ見ぬ我が子のことを『ベイベー』と呼ぶことにした。

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7月にそれまで飲んでいた薬をやめた。

なんとなくやめたらすぐできるもんだと思っていたのだけど、これがまぁそこまで甘くなくて、そもそも月経が復活するまでに2ヶ月近くかかり、PMSのような体調不良は1ヶ月ぐらい続いた。

根が真面目なので基礎体温をきちんと測り、なんとか周期が安定してきたかなと思いつつもやっぱり恵まれず、どうしたもんかなぁといろいろ後ろ向きにもなっていたのだけど、あんまり気にしていなかった月におや?と太ももの付け根にピリピリとした痛みを感じた。これは先月の生理前となにか違う気がする、とあまりよくないけれどネットで調べまくった。もしかして、もしかして、と思いながら毎日体温を測る。そもそも今月は急に冷え込んだこともあって高温期もあまりあがらなかった(36.5ギリ届くくらい)のに、気付けば36.8をキープしている。これは、これは、と思いながら生理予定日がきても生理はこなくて。割と周期はズレない方なので期待しつつも、怖い。予定日一週間で検査薬を試そうと思っていたものの、三連休前にこのまま待っていてもあまり状況は変わらないなと測ってみたら、陽性だった。

びっくりするほど実感が湧かなくて驚いた。夫氏も同じで、つねに子どもはほしかったので頑張っていたけれど、いざできたとなると「本当か…?」みたいな気持ちになった。二人して本当に頼りない親である。

ネットで知識を得てしまったので、5週いかないと超音波でも確認できないよな、ということで一週間待って、今日病院に行き、無事妊娠を確認してきた。いろいろ調べていたけど、内診だけで5000円で済んだ。すごい。

病院はあまり好きじゃないので心配だったが、評判通りのサバサバして良い男性の先生だった。私が内診室に移って夫氏と二人きりになっても夫氏と話していて、とても好感が持てた。なにかすごい診察があるかと心していったのであっさり済んで拍子抜けしたが、エコーの写真も貰えたし、ようやく一歩だなぁと思う。

帰り際、助産師のような女の先生に話しかけられた。私が診察で先生に「どこで産みますか?」と聞かれ、そもそもそんなことを聞かれると思っていなくて戸惑ったのだが、この夏に里帰り出産をしてほしい母親としたくない私がぶつかったこともあってそういう事情を伝えたことに対して、「だいたい8週くらいで予定日が決まったら病院を予約するんですね。」と教えてくれて、先生自身の経験をもとに里帰り出産について親と話し合うよう優しく諭された。とても良い病院だなあと思って、感心している。

いろんなことを覚えておきたいので、周りに公にできない今の時期だけど、ブログには記録していきたいと思う。まずはこんな状態なのに月曜のカントリー・ガールズ3周年イベントではしゃいだことを告白します。いや、しかしどうしても譲れなかったのだ、わかってほしい、我が子よ……。

最高の「観客」としての人生

友人の所属している楽団の定期演奏会に行った。彼女がなにかの公演に出るときにはできるかぎり都合をつけて見に行くようにしている。私自身も5歳から18歳までピアノを習っていたし、中学生のときには吹奏楽部に入っていたし、音楽はずっと好きなので、彼女から届く演奏会の知らせをいつも楽しみにしていて、いつも心から楽しませてもらっている。

自分がやっていたこともあって、いろんなことを考えながら見ている。一番大きな感情は「楽しい」で、単純に観客としてその演奏を無心で楽しんでいる気持ちだ。その次に「自分もやりたい」と続く。人生の15年音楽をやってきて、終えるときには正直「もうやりきった」と思った。このさき、趣味ででも続けていければいいかな、ぐらいの軽い気持ちでやめた。その後自分のような人間には趣味で続けることはできないと衝撃的な事実に気づくのだが。

何度か「演奏会見ているとやりたくなるんだよね」と彼女にこぼしたことがある。彼女は「いいよいいよ。やってみよう」と声をかけてくれるが、私はなんとなくそれ以上進む気になれない。

体力が、ない。社会人になって趣味をきちんと続けられる人を、私は心から尊敬するのだが、それはひとえに彼ら彼女らの体力の大きさに圧倒されているのだと思う。彼女も私から見ると非常に体力があって、いつでも羨ましい。

私は長年無趣味であることがコンプレックスだった。もう少し正確にいうと、無趣味であると自覚していることが、コンプレックスだった。周りから見れば、私もそこそこアイドル鑑賞を続けているし、本も読むし、わりと趣味を嗜んでいる方だと、今ならわかる。だから「無趣味である」こと自体に思い悩むことはしなくなったのであるが、もう少し鮮明にわかったことがある。私は、私自身に体力がなく、動の趣味を続ける才能がないことを、嘆いているのだ。

ざっくりであるが、物事にはだいたい静と動があって、それは趣味にも適応されると思う。私が長く続けられる趣味はほとんどが静のものであって、動で続けられることを趣味として(つまり習い事や部活などの強制されるもの以外で)続けられることができないということに気づいてしまったのだ。これは、ただ単にいま音楽を復活させられないからというだけで決めつけているわけではなくて、この数年間の間にも何度か興味のあることを続けたことがあるのだが、それが続いた試しがないのである。とくにクリエティブなことは本当に続ける才能がなくて、編み物も縫い物も粘土細工も、全部1回で興味がなくなった。私にはなにかを続ける才能があまりないのかもしれない、と思うのだが、アイドル鑑賞と読書はかろうじて続いている。

話がぐるっと脱線してしまったように感じられるので戻すと、今回も演奏会を見ながら、何度も舞台に立つ緊張感や演奏をやりとげる達成感を思い出したのだが、「じゃあまたやりたいか」といわれると、自分の中でしっくりこない気持ちになる、を繰り返していた。ではどうして見るのは好きなのか、聞くのは好きなのか、シンプルに考えると、私はやはりこういう演奏会や劇、舞台、コンサートなどに生で触れることは非常に好きなのである。見ず知らずの大人たちや子どもたちが目の前の音楽に真摯に向き合って、一つのものをつくりあげているときに、心から感動している自分がいる。私の人生は演者から始まっているので、自分はすっかり目立ちたがりで、やりたがりなのだと思っていたし、今もそういうところがあるのではないかと疑っているのだが、どう考えてもここ5年単位で、観客としての自分のポテンシャルを感じてならない。今日そこに思い至ったときに、なんとなく自分の中で腑に落ちたのである。

さぁ、気づいたは良いものの、私は私自身のこれからの人生が「最高の観客としての人生」だと歓迎できるかと聞かれると、やや複雑な気持ちになっている。見ているだけで満足できるかというと、そうでもないのだ。では私は一体どうしたいんだろう? もう少し、いろんな社会を勉強しながら考えていくしかないのかもしれない。

ちなみにこのブログの前につくっていたブログのタイトルは『きっと誰かが主人公』であった。我ながら皮肉なタイトルであることよ。

誰にも見せないメモアプリに蓄積される過去の私たち

愚痴を垂れ流すのがやりたいことじゃないなと思って沸点に達した感じがしたら『瞬間日記』という鍵付きのアプリに書き込んで忘れるようにしている。一時期は少ないフォロワーでも誰かが見ている環境で愚痴るのがストレス発散になっていると自分では思っていたので、こうすることでストレスが晴れなかったら嫌だなぁなどと思っていたけれど、案外文字にするとスッキリするもので、ここ数年はなるべく実生活の愚痴はアプリ任せにするよう心がけている。私のツイッターでの愚痴はアイドル関係ばかりだ。

これはパンドラの箱のようなもので、アプリを起動したらまず投稿画面が表示され、そのとき思い至った愚痴を入力するまでこれまでの愚痴の羅列を見ることはない。普段はカッと打ち込んで、そのあと過去のものなんか見もしないでアプリを落としている。ひとつひとつを読み直すと過去のことであっても不愉快になるに決まっているからだ。

そういうわけで、読まないことにすると決めていたのに、今夜はなんだか気が変わって、昔の愚痴を読み直してみた。とはいえ毎日書いていることもないので10個ほどで数ヶ月分遡れる。

驚いたのは、書いた内容がどんな出来事に紐付いて、どんな事件だったのか、まったく思い出せないことだ。あまりに見事な嫌味のような文章に「よくこんな表現思いついたな」と感心することはあっても、それがどんな感情だったのかをあまり鮮明に思い出せない。

私は粘着質な人間なので、負の感情を持ち続ける方だと思っていたのだが、案外そうでもないのかもしれない。あまり深追いせず、眠ることにする。とりあえず、愚痴は貯めない見せない文字にする。そういうことである。

『なにもない』を知ること

数日前から下腹部に痛みを覚え、押すと痛む。過敏性腸症候群にはよくなるストレスフルな身体だが、女性の敵として名の知れている便秘とは無縁の人生を送ってきたため、あまり経験したことのない痛みに怯えた。しかし強いて例えるならば、生理痛のような重い痛みがやんわりとつづく。しかも左右。これが片方であれば盲腸かしらと思えたものの(それでも十分嫌だ)、自分でもわかるくらい子宮が痛んでいるように感じた。

かかりつけのお医者さんは、医院の名前とは違う苗字の女医さんが一人で営んでおり、この女医さんが非常にサバサバしていて、私はとても好きなのだ。「なんとなくだるいんです」というと「しっかり栄養をとろうね」となるべく薬漬けにしない。物足りない人もいるだろうが、かかりつけの医者であれば、これぐらい気軽に行ける方が良い。しかしこの病院が水曜木曜と定休日なのであった。その間もやんわりと痛み続ける私の下腹部。1日が命取りになってしまってはしょうがない。

しかしもともと病院が嫌いな私である。パソコンばかり見て一言二言告げるだけで数千円も取られる。自分の身体をあずける職業(医者、美容師、整体師)はなかなか積極的に替えられないのが性格である。そんな状態なのにうじうじと寝転がる私を見て、ついに夫氏が近所の評判のいい別の病院を見つけてきた。さすが靴をなかなか買いに行かない私に女性もののブランド靴を見つけてきた男である。元来人に借りを作りたくない私は重い腰を上げ、夫氏の見つけた病院に行くことにした。

そこは個人病院のわりに大学病院のような施設を揃えていることが売りのようで、院長がインタビューを受けている記事が壁に貼られていた。私はどうせその日だけではなにもわからず、血液検査で後伸ばしか、違う病院に行けと言われるかでそんなに期待していなかったのだが、超音波で腹部を見てくれるというではないか。初超音波が普通の内科で行われることに複雑な気持ちを抱えながら、私は身を委ねた。押すと痛いといっている部分を女性の看護師さんに何度も押された時はさすがに顔をしかめたが、もともと痛みが多すぎて痛みに鈍感な私である。「女性は痛みに強い、女性は痛みに強い」と頭の中で呟きながらその痛みに耐えた。あまりにも同じところを何度も見ているので、これは本当になにか病気なのではないかと、少し気が気でなかった。

結論から言うと特に病気のようなものは見られず、位置としてはやはり子宮であるので、少し腫れて痛いのかもしれないとのことだった。続くようであれば婦人科を受診するようにと優しい顔で言われた。ここのお医者さんは診察中にキーボードやマウスには一切触れず、手を膝において真っ直ぐにこちらを見てくれる。そんなことに感動するなんてと思うが、とても良い病院だなと心から思った。私はほんの少し、本当に病気だったらどうしようと思っていて、少し諦めたような気持ちになっていたのだが、「なにもない」とわかると、胸のつかえがとれたような気がした。なにがあるかわからない状態は無限に想像を膨らませてしまうのでよくない。私は健康なのだ!なにも恐れることはない!

先生がさらっと「まぁ脂肪肝がありますけどこれは運動不足ですね」と笑い流した部分をもう少し聞いておけばよかったと、今は少しだけ後悔している。

ねにもつタイプな私

人より本を読む方だとは思うのだが、もっぱらエッセイばかり読んでいるので、何か役に立つ知識が増えるわけでも、感受性が劇的に育まれるわけでもなくて、ただただ読むために読む、という行為になっている。

エッセイは良い。正解とか間違いとか関係なく、その人が思ったことを思った理由とともに述べられているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。私は想像力と感受性が割と強い方で、なにかを見たときや聞いたときに受ける影響が非常に大きい。特に映像で補完されない文章なんかは最悪で、自分の頭の中で無限に補完が広がって収集がつかなくなり、さいあく不眠の朝を迎える。そういうわけで、本を読むのはとても好きなのだが、小説は読まないようにしているのだ。

一年近く前から益田ミリを読み漁り、いまは文庫本をほとんど制覇してしまい、少し困っているところである。そんなときに王道も王道であるがさくらももこと出会い、最近ではずっとさくらももこのエッセイを読んでいた。売れている作家は良い。とてもたくさん読むものがある。2年ほど前に岸本佐知子の『気になる部分』を読んだ。夫氏(当時の恋人氏)にすすめられ、とにかくげらげら笑った記憶があり、岸本佐知子の書いた他2冊のエッセイも存在を教えてもらったが、なんとなく読まないまま時が過ぎていた。ふと思いつく時があったので、思い出した時が読みたい時かと、あらためて『ねにもつタイプ』を読んだのだが、これがどうもしっくりこない。私の中では岸本佐知子は好きな作風だったはずなのだが、なんとも言い表せない不気味な感情が、胸を支配してしまったのである。

考えてみると、もはや『ねにもつタイプ』はショートショートである。岸本佐知子の奇才さを極限まで際立たせようと編集者は企んだのだろう。彼女の不気味さは、日常から急展開して訪れる圧倒的非日常の描写にあり、それをより鮮やかに見せるのが、エッセイ風の文体であり、体なのである。

ここで、エッセイだと思い込んで油断していた私は、岸本佐知子の圧倒的世界観に飲み込まれ、頭の中で岸本佐知子の文章が具現化され、勝手に展開し始め、自分の力では制御できなくなっていく。これだから私はエッセイしか読みたくなかったというのに。

『ねにもつタイプ』はとても良い本だと思う。しかし私の風邪は悪化して、明日は大切な友人の披露宴だというのに咳が止まらず寝込んでしまっている。文学は薬か。薬は毒か。私は私の感受性をうまくコントロールできない自分を、とても疎ましいと思うし、愛らしいとも思っている。