かわいいとおいしい

そのために生きている

ねにもつタイプな私

人より本を読む方だとは思うのだが、もっぱらエッセイばかり読んでいるので、何か役に立つ知識が増えるわけでも、感受性が劇的に育まれるわけでもなくて、ただただ読むために読む、という行為になっている。

エッセイは良い。正解とか間違いとか関係なく、その人が思ったことを思った理由とともに述べられているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。私は想像力と感受性が割と強い方で、なにかを見たときや聞いたときに受ける影響が非常に大きい。特に映像で補完されない文章なんかは最悪で、自分の頭の中で無限に補完が広がって収集がつかなくなり、さいあく不眠の朝を迎える。そういうわけで、本を読むのはとても好きなのだが、小説は読まないようにしているのだ。

一年近く前から益田ミリを読み漁り、いまは文庫本をほとんど制覇してしまい、少し困っているところである。そんなときに王道も王道であるがさくらももこと出会い、最近ではずっとさくらももこのエッセイを読んでいた。売れている作家は良い。とてもたくさん読むものがある。2年ほど前に岸本佐知子の『気になる部分』を読んだ。夫氏(当時の恋人氏)にすすめられ、とにかくげらげら笑った記憶があり、岸本佐知子の書いた他2冊のエッセイも存在を教えてもらったが、なんとなく読まないまま時が過ぎていた。ふと思いつく時があったので、思い出した時が読みたい時かと、あらためて『ねにもつタイプ』を読んだのだが、これがどうもしっくりこない。私の中では岸本佐知子は好きな作風だったはずなのだが、なんとも言い表せない不気味な感情が、胸を支配してしまったのである。

考えてみると、もはや『ねにもつタイプ』はショートショートである。岸本佐知子の奇才さを極限まで際立たせようと編集者は企んだのだろう。彼女の不気味さは、日常から急展開して訪れる圧倒的非日常の描写にあり、それをより鮮やかに見せるのが、エッセイ風の文体であり、体なのである。

ここで、エッセイだと思い込んで油断していた私は、岸本佐知子の圧倒的世界観に飲み込まれ、頭の中で岸本佐知子の文章が具現化され、勝手に展開し始め、自分の力では制御できなくなっていく。これだから私はエッセイしか読みたくなかったというのに。

『ねにもつタイプ』はとても良い本だと思う。しかし私の風邪は悪化して、明日は大切な友人の披露宴だというのに咳が止まらず寝込んでしまっている。文学は薬か。薬は毒か。私は私の感受性をうまくコントロールできない自分を、とても疎ましいと思うし、愛らしいとも思っている。